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Artist

TP OK JAZZ

Title

HERITAGE DE LUAMBO FRANCO


heritage
Japanese Title

国内未発売

Date 1991
Label GLENN GM90002 (FR)
CD Release ?
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 1989年10月12日、フランコ死す。10月17日、亡骸として故郷へ帰ったフランコのために国民挙げての葬儀が催された。モブツ大統領の弔辞のあとで、フランコの老母マキースは物言わぬ息子に語りかけるようにO.K.ジャズを引き継ぐのはシマロであることを宣言した。これは清洲会議で織田家の重臣、丹羽長秀が信忠の遺児、三法師を担ぐ羽柴秀吉を支持したのとおなじぐらいの重みを持つ。
 この会議に柴田勝家とともに反秀吉の急先鋒であった滝川一益が出席しなかったように、ヨーロッパ組の若頭格マディル・システムは葬儀に参列しなかった。恩師の葬儀に欠席したマディルは不義不忠の輩として世論からきびしく糾弾されたのはいうまでもない。

 O.K.ジャズの主導権をめぐるさまざまな憶測が飛び交うなか、89年12月8日、シマロをバンド・リーダー、サックス奏者のエンポンポ・ロワイを音楽監督に新生O.K.ジャズはキンシャサのステージに上った。ところが年が改まった1月末、エンポンポが病死。シマロにとっては名軍師といわれた竹中半兵衛重治を失ったようなものだったろう。

 出鼻をくじかれたかたちのシマロに追い討ちをかけるように、マディルはシャンピヨン・デュ・ザイール LES CHAMPIONS DU ZAIRE を旗揚げ。いち早くフランコの追悼盤"HOMMAGE A FRANCO 0.K. JAZZ"(SONODISC AF306152)を発表する。これに呼応するかのように、ヨーロッパ組の番頭格ジョスキー・キャンブクタもTPOKジャズを率いてソロ・アルバム"LE COMMANDANT DE BORD DANS CHANDRA"(SANS FRONTIERES)を発表。キンシャサにあってはO.K.ジャズの正統な後継者と指名されたシマロではあったが、レコードのうえではヨーロッパ組に先を越されてしまった。

 しかし、このときはマディルもジョスキーもシマロにあえて反旗を翻そうとの野心はなかったとみえ、90年中にはキンシャサ組とヨーロッパ組が合流。シマロを旗頭としてO.K.ジャズは再結集した。マディル、ジョスキーに加えて、フランコ在世中にO.K.ジャズを離れていた歌手ぺぺ・ンドンベ・オペトゥムもグループに復帰した。

 こうしてシマロを中心にまとまったO.K.ジャズが、フランコの死からおよそ1年後の90年末にようやく発表したアルバムが本盤である。アルバム・タイトルを『ルアンボ・フランコの遺産』"HERITAGE DE LUAMBO FRANCO" としたこと、表紙はシマロの顔写真なのに“シマロとTPOKジャズ”としないで“TPOKジャズ”とのみしたところに、わたしはシマロの深慮をみる。すなわち「自分はフランコと取って代わったのではなく、亡きフランコの名代として“フランコのO.K.ジャズ”を預かっているにすぎない。だからこそ、このバンドは正真正銘のO.K.ジャズなのだ」と。これは秀吉亡きあと、家康が五大老の一人として当初、秀頼を祭り上げたのとよく似ている。

 オリジナルのLPには参加メンバーのクレジットはあったというが、コンゴ〜ブラザヴィルのレーベルGLENNからのCD復刻盤には、パーソナルはおろか、作者名すら載っていない*。ところが、さいわいなことに『ミュージック・マガジン』91年6月号の輸入盤紹介で海老原政彦さんがLPをとりあげていた。

* その後、手に入れたオリジナルCD(TAMARIS/SONODISC CD 90002)にもGLENN盤とおなじく詳細なデータは載っていなかった。

 この記事などから推測するに、シマロ、マディル、ジョスキー、ンドンベに加えて、エメ・キワカナ、ロラ・シェケン、ジョー・ンポイ、ジャト・ルコキ(以上、歌手)、ジェリー・ジャルンガナ(ギター)の参加はまずまちがいない。ダリエンストはフランコ最晩年に脱退していたことから不参加。(2) (4) (5) で大活躍のギタリストのパパ・ノエルについてはいまひとつ確証がない。

 全6曲中'JACQUINA' を除いてすべてシマロの作品。
 このうち、'HOMMAGE A LUAMBO-MAKIADI''FRANCO LUAMBO' は師匠へのオマージュ。前者は、海老原さんをして「涙なしでは聴けない」といわしめたジョー・ンポイの粘着質なナルシズム系ヴォーカルと、ドライでシンプルな音づくりのコントラストがおもしろい。アルバムの最後に収められた後者は、イタリア・モンド調?の軽やかなメロディにのせて、フランコの名が延々と呼称されるだけの異色作。2曲ともゆったりした曲調だが沈んだ感じはなく、女性コーラスやシンセが効果的に使われてふくよかで温かみのある仕上がりになっている。フランコのO.K.ジャズが父性的な包容力にあふれていたのにたいし、シマロのO.K.ジャズは母性的なやさしさをたたえていると感じた。

 曲順が前後するが本盤で唯一マディルが参加したと思われるのが、アルバム冒頭の'EAU BENITE'。マディルが歌うときはバンド・サウンドとしてよりもマディル個人のカリスマをきわだたせるようなサウンド・クリエーションがよくおこなわれる。この曲はその代表例といってよく、ゆったりしたテンポにのせて、約8分30秒間、例のバリトン・ヴォイスで滔々と歌い続ける。演歌かソウルを思わせる熱唱。91年夏にパリでおこなわれたライヴの模様を収めたDVD "A LA MUTUALITE A PARIS"(SALUMU/ATOLL 7019 ATD 200)の冒頭にあったのがこの曲だった。演奏時間はオリジナルの倍近い約15分で、観客と一体になったマディルの独壇場だった。

* ちなみに、このDVDにはボーナス・トラックとして(おそらく)TV映像から採ったフランコのO.K.ジャズ時代の4曲を収録。このうちの1曲がO.K.ジャズ伝説の歌姫ジョリー・デッタによる名曲'MASSU' ! コンゴ人とギリシャ人の混血ジョリーのセクシーな歌とダンスが見られるというだけでもこのDVDはぜったい買い。

 自己顕示欲のかたまりみたいなマディルにたいし、なによりも全体との調和を尊重するのがジョスキー。'LADJI-MUNDELE' はアップテンポでウキウキ気分のコーラスが印象的なポップ・ナンバー。そんな透明なハーモニーのカーテンのすき間からときどき顔をのぞかせるのがジョスキー。マディルとちがって、曲の後半にはみずから退いて、めくるめくギター・アンサンブルとホーン・セクションのつづれ織りをたっぷり聞かせてくれる。

 LPではB面1曲目にあたる'JACQUINA' は唯一シマロ以外の作者による楽曲。メイン・ヴォーカルがペペ・ンドンベらしきところから確証はないがかれの作品か。しぼり出すような汗くさい熱唱がひたすらかっこよく、'EAU BENITE' でのマディルとともに本盤の双璧をなす。5分40秒を過ぎたあたりからテンポアップしてセベン(ダンス・パート)に突入。
 マエストロ・アライによると、70年代後半、O.K.ジャズではフランコによってアニマシオン(掛け声)禁止令が出されたのが、フランコの死によって解禁されたのだそうだ。そこでとりいれられたのが、フランコの故郷バ・ザイール州のダンス“マエーノ”だった。おそらくこれが“マエーノ”のアニマシオンが聞かれるほとんど最初だろう。

 これとほぼシームレスにつらなる続く'POT POURRI' ではダンス・マエーノはさらにヒート・アップ。ジョスキーとンドンベの掛け合いを中心に、これぞO.K.ジャズ・サウンドというべき華麗でスリリングな歌と演奏が展開される。ひたすらこの愉悦の海に浸るほかない。



 ところで、フランコの死後、シマロをリーダーに発売されたO.K.ジャズのCDにはつぎのものがある。

(1) "HERITAGE DE LUAMBO FRANCO"(GLENN GM90002 または TAMARIS/SONODISC CD 90002本盤
(2) "MABY...TONTON ZALA SERIEUX"『全能』(SANS FRONTIERES/GRFRACO SF007/GRAND SAMURAI PGS-07D)
(3) "SOMO!"『ヴェルヴェット・タッチ』(TAMARIS/SONODISC CD 91006/GRAND SAMURAI PGS-08D)
(4) "LIVE ON SFINKS FESTIVAL VOL.1"『スフィンクス・フェスティヴァル前篇』(A.P.L. CBC CD19/GRAND SAMURAI PGS-44D)
(5) "LIVE ON SFINKS FESTIVAL VOL.2"『スフィンクス・フェスティヴァル後篇』(A.P.L. CBC CD23/GRAND SAMURAI PGS-45D)
(6) "CHAUDE AMBIANCE"『王道』(BABI/SONODISC CD 65055/GRAND SAMURAI PGS-28D)

 (2) は、(1) の直後の録音か。シマロ作品集の色合いが濃かった(1) にたいし、主要メンバーが1曲ずつ持ち寄った6曲構成。ジャケットにはそれぞれの作者であるマディル、ジョスキー、シマロ、ンドンベ、キワカナ、パパ・ノエル6人の(コワモテあんちゃん風の)ポートレイトがならぶ。O.K.ジャズを知らなければ、これを見て購入を手控えるだろうが、内容としてはこれまでになくライトでメロウなサウンドに仕上がっている。O.K.ジャズ・オールスターズの顔見世興行的な色合いが濃いため、トータル・アルバムとしてのまとまりはさほど感じられない。

 まとまりという点では、おなじく91年発売の(3) に軍配が上がる。マディルの参加はないが、そのぶん、仕上がりがさらにライトになって“ハーモニック・フォース”と呼ばれるO.K.ジャズならではの心地よい音のカーテンが全体に張り巡らされているような印象を受ける。この軽やかで優美なたゆたいは、黄金期のルンバ・コンゴレーズがまとっていたものだ。でもって、音の明瞭でハギレよいところなどは志半ばで逝ったエンポンポのサウンド・プロダクトを思わせたりもする。

 91年夏、フランコの死後、O.K.ジャズははじめてのヨーロッパ・ツアーを敢行した。7月27日にブルターニュのスフィンクス・フェスティヴァルに出演したときのライヴを2集に分けて収録したのが(4)(5)。前にふれたパリ・ライヴのDVD "A LA MUTUALITE A PARIS" とほぼおなじ時期とみてまちがいない。ただし、パリのライヴに出ていたジョスキーはここではなぜか参加していない。

 スタジオ録音盤ではどれもシンセが使われていて、それがサウンドに安っぽさ、俗っぽさを与えていたことは拭えなかった。その点、ライヴではキーボードが使われていないので、ギターを中心にしたオーセンティックなルンバ・コンゴレーズの醍醐味が思う存分に堪能できる。

 前篇の(4) ではフランコ晩年の作品'LES ON DIT''LES ONT DIT' と表記)'MASSOU''MASU' と表記)をはじめ、70年代にシマロが書いた'BISALELA''RADIO TROTTOIR' が再演され、フランコとO.K.ジャズ栄光の軌跡をふりかえる趣向。さすが百戦錬磨のプロ集団だけあってたいへん充実した歌と演奏テクニックが展開されるが、なかでもフランコが乗り移ったかのようなギター・プレイを聴かせてくれるパパ・ノエルがすごい。「ルアンボ・フランコの遺産」'HERITAGE DE LUAMBO FRANCO' のことばに偽りはなかった。

 後篇の(5) は、フランコ亡きあとのO.K.ジャズのカリスマ、マディル・システムをフィーチャーした構成。マディルのオリジナル2曲に加えて、フランコとO.K.ジャズ時代のマディルの名唱で知られるシマロ作'TALA MERCI BAPESAKA NA MBUA''MELISA BALESA NA MBWA' と表記)とフランコ作'MAKAMBO EZALI BOURREAU''MAKAMBO EZALI MINENE' と表記) の再演はまさに感涙もの。
 これら2枚のライヴは、「ルアンボ・フランコの遺産」とは残されたメンバーたちのことであったと確信したくなるほどすばらしい名演集といえる。

 90年から翌年にかけて精力的に活動したシマロ率いるO.K.ジャズであったが、その後、93年に前述のライヴ盤を発表した以外は鳴りをひそめてしまった。理由はおそらく、92年にシェケンとキワカナ、93年にジョー・ンポイと3人もの歌手をあいついで病で失ったことによる。

 そして、およそ1年半の沈黙ののちにようやく発売されたスタジオ録音盤が(6) である。アルバム表紙には堅く手を握りあったシマロ、マディル、ジョスキーの3人の写真が配され、ほかにンドンベ、ギターのジェリー・ジャルンガナ、ベースのマカビ・フラヴィアン、パーカッションのウェテト・ミコラソンといったおなじみのメンバーが脇を固めている。しかし、かれら以外はほとんどメンバーが入れ替わってしまった。さらにシンセや打ちこみが本格的に導入されたおかげで、ノリが単線的になり全体により軽く薄っぺらく聞こえるようになった。しかし、別の見方をすれば、ここにいたってフランコのつよい影響から脱し新境地を切り拓きつつあった証拠といえるかもしれない。

 このCDとおなじタイトル、おなじデザインでDVD"CHAUDE AMVIANCE avec LE T.P. OK JAZZ"(BABI BB51)が発売されている。CDの6曲中1曲を除けばすべて映像付きで収録されているだけでなく、O.K.ジャズ時代からのシマロの代表曲をメドレーで再演したバナOK時代の演奏など、ボーナス・トラックもたっぷりのトータル1時間30分だ。シマロ、ジョスキー、ンドンベ、マディルらメンバーの口パクによるチープでおちゃめな映像は一見の価値あり。個人的には陽気なハゲオヤジ、ジョスキーがお気に入り。CDを買うぐらいならこちらをおすすめ。

 しかし、このひさびさの新作がリリースされたのとおなじ年、シマロのO.K.ジャズは激震に見舞われる。フランコの妹マリー・ルイーズを中心とする遺族たちが、かれらに“O.K.ジャズ”の名称の使用禁止を求めた裁判をおこしたのである。そして94年1月1日、ついにシマロに従うマディルを除くメンバー全員は“O.K.ジャズ”の名称をかなぐり捨てて、新たに“バナOK”と名のるようになった。同年、デビュー作"CABINET MOLILI"『100% OKジャズ』(BONO MUSIC/SONODISC CD 5008 / GRAND SAMURAI PGS-58D)を発表。変わらぬクオリティの高さをしめしてくれた。

 いっぽう、フランコの遺族の手に落ちた“O.K.ジャズ”は、当初マディルに委ねられたが、かれはソロ活動に専念するため半年でなげうってしまった。ファミリーがつぎに白羽の矢を立てたのは、ブラザヴィルでカミカゼ・ロニンギサを率いていたユールー・マビアラだった。ユールーはこの申し出を受けると95年、新生O.K.ジャズがスタートさせた。

 ところで、ユールーとTPOKジャズを名のるCDは"OLELI OLELI"(SONODISC CDS 8821)"INFRACTION"(SONODISC CDS 8831)の2枚がリリースされているが、それらとは別に、たんに“TPOKジャズ”とのみクレジットされた"LA RELEVE"(SONODISC CDS 7023)というアルバムがある。これにユールーの名は見えるものの、ユールーらしさはまるで感じられず、全体の印象としてはO.K.ジャズ・サウンドのノッペリしたコピーといったところだ。

 このアルバムでソロ・ギターとプログラミング(それにおそらくバンド・リーダー)を担当したエルヴィス・ションゴがフランコの妹マリー・ルイーズの息子。姿かたち、声、ギター・スタイルにいたるまで伯父さんとそっくり。さらにエルヴィスとともにミキシングを担当したルアンボ・エモンゴはフランコの息子なのかもしれない。それなりのまとまりは感じられるものの、覇気とスケール感がちょっと足りなさすぎる。O.K.ジャズの血脈はフランコ・ファミリーにではなく、シマロやジョスキーたちのなかにこそしっかり受け継がれているのだろう。

 最後に、この場を借りて、今年(2005年)起こった重大な事件を記しておきます。
 なんと、コンゴ音楽の宝庫ソノディスクの親会社だったネクスト・ミュージックが倒産。これによって、大多数のO.K.ジャズのアルバムはもはや店頭在庫しかなくなってしまった。さらに、あのンゴヤルトも他人の手に渡ってしまったという。良質なルンバ・コンゴレーズにふれる機会が極端に狭められてしまったことを心から悲しむ。



(6.10.05)



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by Tatsushi Tsukahara